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右田ヶ岳のご案内

天徳寺登山口

天徳寺登山口

 右田ヶ岳登山口には、大きく分けると勝坂登山口、塚原登山口、そして前岳(石船山)よりストレートに登る天徳寺登山口があります。

 天徳寺よりの登山は、白砂青松の山肌に奇岩が露出し、見て美しく、登れば防府市街地を一望、瀬戸内海も見渡せ、好天に恵まれれば、遠くは国東半島も望むことのできる一番人気のハイキングコースです。

【天徳寺登山口】
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勝坂登山口
【勝坂登山口】
塚原登山口
【塚原登山口】
右田ヶ岳地図

▼ 駐車場
右田小学校グランド南側(約30台駐車可能)

▼ トイレ
右田小学校敷地西側にあり、天徳寺参道より利用可能。

▼ 注意事項
近年、登山ブームによって多数のクライマーが来山されます。
しかし、あまりの軽装により、時に遭難事故をおこす登山客がおられます。くれぐれも要注意。登山道は険しい山道もあり、時に落石もあるので、くれぐれも注意して登って下さい。

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右田ヶ岳登山者臨時駐車場
【右田ヶ岳登山者臨時駐車場】
トイレ
【トイレ】
石船山の自然石に彫られた三十三観音さま(磨崖仏)
右田ヶ岳登山
右田ヶ岳登山

 石船山の磨崖仏は、天徳寺25代住職・永井大暁和尚の代に、観音様を信仰する人たちが、家門の繁栄や健康を祈って彫られたものです。

 施主家は下関の信者が21人と圧倒的に多く、次に防府の信者が7人、東京と京都の信者が各1人、その他3人は不明である。なぜ下関の信者が多かったのかについては明らかではありません。

 天徳寺境内に丈六の聖観音菩薩像が、大正4年5月10日に勧請されたのを契機として、大正4年7月3日に第二番の龍頭観音の製作が始まりました。その後大正7年から13年まで、足掛け10年を費やして三十一体の磨崖仏が製作されています。また製作途上の観音像が一体あり、恐らく「岩戸観音」ではないかと推察されます。

 なお三十三観音の第1番「楊柳観音」(薬王観音ともいう)は当初より彫られておらず、観音堂内の「聖観音菩薩像」をもって、充当したのではないかと推察されます。

 防府近辺の摩崖仏では、岩淵山観音寺の摩崖仏(明治11年前後か)が最も古く、こちらは西国三十三観音です。

  • 三十三観音
  • 三十三観音
  • 三十三観音
  • 三十三観音
  • 三十三観音
  • 三十三観音
石船山山頂の「心経巌」

 石船山山頂には、曹洞宗大本山永平寺の第64代貫主・森田悟由禅師(1834~1915)筆跡の「般若心経」が自然石に彫られています。原本は軸表装で、天徳寺宝物として収蔵されています。

○森田悟由禅師略伝○

 森田悟由禅師は、天保5年(1843)正月元日、愛知県知多郡大谷村に生まれる。
天保11年(1840)名古屋大光院泰門のもとにて出家、同12年泰門に就いて得度、法名を悟由と改めた。その後内外諸典を学び、明治8年(1875)金沢天徳院に住職。
 明治24年(1891)大本山永平寺に晋住、同28年(1895)曹洞宗管長に就任、明治天皇より「性海慈船」の禅師号を賜る。大正4年(1915)2月9日、82歳をもって示寂。

心経巌 心経巌

右田ヶ岳山頂の観音堂(右田ヶ岳は観音さまの霊峰)

  • 上右田の古地図
  • 下右田の古地図
  • 高井の古地図
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  • わずかに残る城の石垣(東の峰)
    【観音堂の石垣と伝わる(中の峰)】

 観音堂はもともと右田ヶ岳の中峰の頂上にありました。天徳寺に伝承されている「右田ヶ岳観世音菩薩縁起」(古写本)によれば、文永11年(1274)7月18日のこと、大内氏20代当主・大内弘貞公が霊夢を見て右田ヶ岳山頂に登ったところ観音菩薩像に巡り会い、そこに観音堂を建て観音像を安置して、周防国の守護仏としたと伝えられています。


 南北朝時代の守護大名・大内氏24代当主・大内弘世(1325-1380)が周防・長門の霊地に観音霊場を勧請、右田ヶ岳の観音さまは周防観音霊場の第二十五番札所となりました。


 観音堂は天正2年2月17日(1574)、寛永12年6月17日(1635)の2回の火事で焼けましたが観音像は火災を免れ、観音堂も国司であった大内氏ゆかりの霊場として直ちに再建、さらに宝永年間(1704-1711)にも焼失して毛利就信公が再建したようです。


 江戸時代に右田ヶ岳山頂に観音堂があったことは、「防長風土注進案」(天保年間:1830~1843)の「上右田」「下右田」「高井」の古地図(荒図)に、「お堂と観音」の書き込みがあることによっても明らかです。このように観音堂は文永年間より明治の初めまで、六百年間山頂に建っていたことになります。


 明治5年3月(1873)、右田ヶ岳山頂の観音堂は、前岳・石船山中腹に移転され、明治30年(1955)に天徳寺25世・永井大暁和尚により再建修復されたと伝えられています。


 右田ヶ岳は観音さまの霊峰・霊山として、七百有余年にわたり、観音信仰のよりどころとして今日に至っています。

上右田の古地図




右田ヶ岳城址(みぎたがだけじょうし)

 右田ヶ岳の山頂にある。頂上は東、中、西の三峰に分れ、西峰が本丸跡、その東下に二の丸跡がある。至る所ところに奇巌(きがん)が起伏して険阻(けんそ)この上なく、敵の進攻を防ぐ天然の要塞である。

 大内氏の一族右田氏が鎌倉末から城を構え大内氏滅亡まで宗家を守っていた城跡である。

 毛利氏が防長平定のため軍を進めたとき、大内義長は高嶺城(こうみねじょう)を築き、毛利元就と一戦すべしと右田ヶ岳城に右田隆量(たかかず)父子、野田長房を置いて守らせたが、弘治3年(1557)元就が若山城に移陣し隆量父子を味方に説得したところ、求めに応じて右田ヶ岳城の守備を撤して進んで氷上(ひかみ)の砦を取り毛利を助けた。

 永禄12年(1569)大内輝弘が背いて山口に侵入のとき、元就は南方就正を城番としてこれに備え城兵が出て要撃した。今は右田ヶ岳城跡は右田ヶ岳とともにハイキングコース、ロッククライミング訓練場として若者の胸をおどらせている。

防府市観光協会
西の峰の本丸跡
【西の峰の本丸跡】

右田ヶ岳と瀬戸の風光

  • 石船山中腹の石灯篭
    【石船山中腹の石灯篭】
  • 石灯篭からの眺望
    【石灯篭からの眺望】
  • 石船山山頂へ
    【石船山山頂へ】
  • 石船山山頂より大海湾を望む
    【石船山山頂より大海湾を望む】
  • 巨石がそそり立つ石船山
    【巨石がそそり立つ石船山】
  • 石船山山頂より右田ヶ岳を望む
    【石船山山頂より右田ヶ岳を望む】
  • 途中険しい箇所も
    【途中険しい箇所も】
  • 石船山・防府市内を望む
    【石船山・防府市内を望む】
  • そそり立つ巨岩
    【そそり立つ巨岩】
  • 切り立った山頂の山肌
    【切り立った山頂の山肌】
  • 右田ヶ岳山頂に到着
    【右田ヶ岳山頂に到着】
  • ほっと一息ティータイム
    【ほっと一息ティータイム】
  • 東に大平山を望む
    【東に大平山を望む】
  • 南に防府市内を望む
    【南に防府市内を望む】
  • 西に佐波川河口を望む
    【西に佐波川河口を望む】
  • 山頂の広場
    【山頂の広場】
  • 石船山と右田ヶ岳
    【石船山と右田ヶ岳】
  • 右田ヶ岳
    【右田ヶ岳】
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