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周防国二十五番観音霊場
三十三観音について

 『法華経』観世音菩薩普門品第二十五(観音経)に、観音の三十三身を説いたものに由来します。つまり観音菩薩が衆生を救うために、相手に応じて「化身」「声聞身」「梵王身」など三十三の姿に身を変えること、変身することを三十三身といいます。観音菩薩の姿は、漢訳では三十三身となっていますが、現在の残っているサンスクリット本では、十二身があげられているだけです。
 西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「三十三」という数字はここに由来します。
「三十三観音」とは、『法華経』の所説に基づき、近世の日本において信仰されるようになったものです。

『法華経』の中に三十三種の観音の名称が登場するわけではありません。
 三十三身に姿を変える「三十三観音」さまの起源は、インド、中国、日本とさまざまで、いつごろ、誰が定めたのかは明らかになっていません。
三十三観音の姿が一同に紹介されたのは『仏像図彙』(ぶつぞうずい)という日本で出版された書物が創めてです。
『仏像図彙』は、天明3年(1783)に土佐の画工・紀秀信によって開版された本で、80種類あまりの経典を元に、仏像、人物、仏具などが紹介されています。
 以下、ご参考までに「三十三観音」さまのお名前を紹介しましょう。

仏像図
【仏像図彙】
三十三観音
観音霊場について

 観音菩薩の像を安置する堂寺三十三ヶ所のことを「三十三所観音」と言います。『観音経』に観音菩薩が衆生を救うために三十三身として現れたとあるのに基づき、この三十三ヶ所を巡拝して、観音さまの功徳にあずかることを願う風習が、平安時代の末から生まれました。鎌倉時代以降には坂東・秩父・西国などの三十三ヶ所観音霊場が開創されました。三十三所観音は、別名「三十三観音」「三十三番札所」とも言われています。

周防・長門の観音霊場
瑠璃光寺にある大内弘世像
【瑠璃光寺にある大内弘世像】

 室町時代に大内氏第24代当主、大内弘世(1352~1380)が西国霊場を模して、周防・長門の霊地に勧請したものです。大内氏は遠く琳聖太子の末孫と伝えられる中国地方の豪族、室町時代は周防・長門の守護職として名声を風靡し、弘世の代は防長の治世も大きく高揚して、山口に城を構え、京洛文化を取り入れるなど「西の小京都」を自負していました。この絢爛文化を背景として開創されたのが周防・長門の観音霊場です。

石船山中腹の観音堂

 景勝石船山は右田ヶ嶽に連なり、山なみの南端にそびえ立つ霊峰です。この前嶽の中腹には、周防国二十五番の札所観音堂があります。もと右田ヶ嶽中峰の頂上にあったらしく、明治5年(1873)に移転したものです。
 現在、聖観音・子安観音・馬頭観音の三体の尊像は、中腹の観音堂より、天徳寺本堂の西側脇に遷座され奉安されています。

石船山中腹の観音堂
【石船山中腹の観音堂】
本堂脇の三体の観音様
【本堂脇の三体の観音様】
右田ヶ岳観世音菩薩縁起(要約)天徳寺所蔵

 右田ヶ岳観世音菩薩の由来は、推古天皇の十九年(611)のころ、百済国の聖明王の3番目の王子である琳聖太子(大内氏の先祖といわれている)がわが国に来て防府の多々良浜に着き、このあたりに領地を賜ったが、(中略)のちに子孫は多々良氏を名乗り、国衙の介(次官)を務めていた。
 文永十一年(1274)七月十八日、大内弘貞公(20代)が不思議な夢をみたので、右田ヶ岳に登り四方を見渡すと、清々しい松風の中、鳥の囀りがお経を唱えるようにおごそかに聞こえる大きな岩の上に、夢に出てきた品のいい老人の姿が見られ、やがてその姿が消えた跡には観音菩薩のお像が残っていた。弘貞公は喜びで涙にむせび、お堂を建ててそのお像を収めて日夜お参りし、周防の国の守護仏とされた。これが今もって変わりなく残っているのである。観音堂は年を経るうちに天正二年二月十七日、寛永十二年六月十七日と2回も火事で焼けたが、観音像は火災をまぬかれ、お堂ももともと国司であった大内氏と、ゆかりがあるのですぐに再建されたから、人々は大変喜んでお参りを続けた。(以下略)

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