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天徳寺の歴史
右田毛利家の菩提寺・天徳寺と毛利家墓所
天徳寺境内の図
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万年山天徳寺の沿革

 建久3年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた際、全国六十六ヶ所にそれぞれ一寺を建立し、国家の興隆と幕府の安泰を祈願したといわれます。その年周防の国では、この地に総受寺を創建し、記念樹として境内に公孫樹と白檀を植えたと伝えられています。
 それ以来、この寺は武家の祈願寺として栄えましたが、寛永2年(1625年)に毛利元倶公(毛利元就公の七男元政公の子)が熊毛郡三丘より右田に移ると、右田毛利氏が清和源氏の流れを汲むことから、この寺を菩提寺に定めて七堂伽藍の再整備を行い、父・元政公の法名である「天徳性真大居士」にちなみ、寺号を天徳寺と改めました。
 悲運なことに明治3年(1870年)の脱隊騒動による兵火で、伽藍古文書のほとんどを焼失しましたが、右田、多々良両毛利家をはじめ多数檀信徒の喜捨(きしゃ)により再興し、現在にいたっています。寺の東の山麓には、右田毛利家の墓所があり、上段に元政公の霊廟、下段には歴代領主や奥方の墓が整然と並んでいます。

入口付近
【入口付近】
入口から山門にかけて
【入口から山門にかけて】
境内地より本堂と鐘楼堂
【境内地より本堂と鐘楼堂】
山門右手より毛利家墓所
【山門右手より毛利氏墓地へ】
毛利家墓所中央上段の元政公の霊廟
【毛利家墓所中央上段の元政公の霊廟】
毛利家歴代の墓石
【毛利家歴代の墓石】
丈六聖観音菩薩立像
丈六聖観音菩薩立像
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丈六聖観音菩薩立像の造立銘(大正4年5月)
【丈六聖観音菩薩立像の造立銘】
(大正4年5月)

 観音菩薩は観世音菩薩、観自在菩薩ともいわれ、三十三観音など多くの観音さまの代表的な尊称です。
 丈六の観音さまとは、一丈六尺、約5メートルの背丈の観音さまのことです。大正4年5月10日、天徳寺二十五世・永井大暁大和尚の代に、多くの檀信徒の浄財によって勧請されました。原型ならびに鋳造師は東京の田村清雲・田村暁雲の二師と伝えられています。
 右田ヶ岳の観音さまに登ってお参りできない方々がお参りしやすいように、さらに明治天皇と昭憲皇太后、日露戦争の戦死者の菩提を弔う願いが尊像には込められています。

丈六観世音菩薩像造立銘(大正4年)
十六羅漢

 羅漢とは阿羅漢ともいい、お釈迦さまの弟子として厳しい修業の末、「最高の真理を悟った人」に与えられた称号です。お釈迦さまのもとには五百人の優秀な弟子がおられ、中でもとびぬけて有能な十六人の弟子が「十六羅漢」と言われています。
 この羅漢さまは、もともと境内の北側にあった羅漢窟に安置されていましたが、その後境内地に移されたものです。

十六羅漢
十六羅漢
十六羅漢
大田稲香、今川岳南について

 境内の西側には、学文堂の督学(現在の学校長)をつとめた大田稲香の墓、そして大田の高弟で後に学文堂教授や右田小学校教師、防府高校の前身である周陽学者の校長を歴任した今川岳南の墓と頌徳碑があります。

○大田稲香 (おおたとうこう)
大田稲香の墓
【大田稲香の墓】

 父敬忠は医者で三田尻に住んでいた。
 文政10年(1827)21歳のとき、広瀬淡窓の門に入り、10年間学び続けた。天保元年(1830)長崎へいき学問を広く修め、そのかたわら砲術を学んだり薩摩や京都にも出掛けている。天保12年(1841)には高島秋帆に従って江戸にいき徳丸原で実際に大砲の撃ち方の演習をしている。その八月には国に帰り、右田毛利に招かれ督学となった。弘化3年(1846)校舎を迫山に移して学文堂と改め学問を盛んにしたので、遠くからもたくさんの弟子が集まり、当時最も栄えた郷校といわれた。
 四境戦争では総督となった右田毛利氏の参軍局として功績があった。稲香は学問の真理を研究するときは厳しい人であったが、弟子に対しては温かく接し、丁寧な教え方をしていた。学文堂の督学を二十六年続けた。
 慶応2年(1866)下関から帰った弟子から、四境戦争に勝った話を聞いて喜んだ夜、病気が重くなり57歳で亡くなった。

○今川岳南 (いまがわがくなん)
今川岳南の墓、今川岳南の頌徳碑
【今川岳南の墓】 【今川岳南の頌徳碑】

 幼いときから学問が好きであった。天保12年(1841)14歳で明倫館の10代学頭・山県太華に師事し、弘化元年(1844)右田に帰り大田稲香に学び高弟となった。嘉永元年(1848)大阪へ勉強にいき、広瀬旭荘(広瀬淡窓の弟)の門に入って学問を深めた。嘉永5年(1852)右田に帰り学文堂都講となり、文久3年(1863)右田議政堂書記となっている。慶応2年(1866)には選ばれて学文堂教授となった。明治の学制改革により明治6年(1873)右田小学校の教師になった。明治10年(1877)周陽学舎(後の防府中学校、今の防府高等学校)創立とともに教師となり、明治17年には校長になっている。明治29年(1896)69歳で亡くなった。その間40余年教育に尽くし、慎み深く穏やかで、人と争うこともなかったが、子弟に対しては態度が正しく情熱にあふれ、しばしば賞を受けていた。先生は書を良くし、詩文に秀でていた。

『ふるさと読本右田』(2000)より抜粋
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